古物市場とアウシュヴィッツ強制収容所
修道院から、バスで街に帰ってきた。朝は雨が降っていたが、もう地面が乾き始めている。
クラクフの天気は変わりやすい。前日に雨の予報が出ていても、午前中には変わっている。午前中の予報が午後に変わっていることもよくある。
今日は蚤の市がやっているということで見に行った。けっこうな規模で、がらくた市の様相だった。手作りのジャムなどを売っている店もある。昼過ぎになると一斉に店じまいが始まり、あちこちに広げられていた品物は鮮やかに片付けられて跡形もなくなった。
パイシチューなどに使ったのか、焦げ跡のある古いカップを1ztで買った。35円くらい。
(焦げ跡があると思ったが、ひどく汚れていただけで、帰国してよく洗ったらピカピカになった。
夕方になり、アウシュヴィッツに強制収容所跡を見に行く。公認ガイドなしの個人の入場は、15時以降に限られている。また、人数制限があるようで入場予約が必要だった。入り口では、空港ほど厳しいものではないがセキュリティチェックがある。過去に遺産の盗難や破壊など犯罪行為が起こっているためか、大型のバッグの持ち込みなどは禁止されている。
アウシュヴィッツの写真はない。写真を撮る場所ではなかった。
アウシュヴィッツは、悲惨な記録資料に胸が悪くなるようだった。建物のある地域は一見大きく見えるが、収容された人数を考えると驚くほど小さい。収容された人々は、劣悪な環境下で軍事用より狭い2段、3段ベッドを利用するよう強制されたとのことだった。強制労働用の建物も、窓が少なく暗い中世の牢獄のようだった。
強制収容所内のそれぞれの建物は保存・修復され、資料館として利用されている。収容された人の顔写真がずらりと並べてある建物があった。女性の収容者の写真が並べられている壁を見ていると、ひどく悲しくなった。強制的に収容されたのは自分と同じように生きていた市井の人である、ということがはっきりわかる。各所の展示が、亡くなった方や被害を受けた方を膨大なデータとして扱うのではなく、1人の人として具体的に描くような内容になっている。
アウシュヴィッツへの行き帰りに、ヤドリギをたくさん見た。ヨーロッパのヤドリギを見るのは初めてだった。ヤドリギは市街地にはあまりなく、郊外でよく見る。成長が遅く、一つの丸ができるのに20年かかることもあるらしい。
クラクフ散策とティニエツ修道院への宿泊
飛行機が着陸する前から、クラクフは素敵な街だとわかった。
東北の山間で生まれ育ったので、暑い地中海地方よりも北国の方が安心する。そしてクラクフは、なぜか着いた瞬間から実家のような安心感があった。
クラクフは古い街並みが残り独特のおっとりした雰囲気があるため、首都ワルシャワを東京に見立てるとに古都京都に例えられることがあるそうだ。
空港から中心街までがとても近い(飛行機を降りて最短45分ほどで街中に出られる)。空港自体がかなりこぢんまりしている。山形駅より少し大きいくらいの規模感にも見える。インフォメーションセンターの人も、両替窓口の人もおっとりしていて親切だ。ポーランドで利用されているのはユーロではなく独自通貨なので、20ユーロだけズオティに両替する。モタモタ両替したが、後ろに並んだ人は急かすでもなく並んでゆっくり待ってくれていた。
空港からの電車で電車の切符の購入も、タッチパネルで簡単だ。普通の小さなバス停にも大体券売機がある。タッチ決済も使える。
空港からの電車で、立派な角を持った美しい牡鹿を見た。
アテネからテッサロニキ(エーゲ航空)、テッサロニキからクラクフ(ライアンエアー)と1日2本のフライトを終えてクタクタになった体をゲストハウスで休めた。
ゲストハウスは街中一等地、中心広場から半径500メートルほどのところにある。疲れ切った体でも、風呂上がりに少し夜の街歩きを楽しめるくらいアクセスがよかった。中心街は観光客と若者で活気があり、夜22時を回っても賑やかな様子。ゲストハウスの一階が(通りから見えない奥まった場所にも関わらず)大層繁盛している酒場だったので賑わいが夜まで聞こえてきたが、疲れていたのと分厚い壁と窓で音が遮られているおかげでぐっすり眠った。朝になると昨日の賑わいが嘘のように静まり返っていた。
毎時正時に、中心広場の聖マリア教会からラッパを吹く音が聞こえる。ラッパの演奏は必ず途中でぷつりと切れる。昔モンゴルの方からタタール人が攻めてきた際に、ラッパ兵が喉を射られ絶命したたことを再現しているそうだ。
クラクフの街はあらゆるところに秩序があり、大きな不安を感じない。一瞬日本にいるのかと錯覚してしまうほど、リラックスできる。得体の知れないこと、予想もしないトラブルはまず起きないだろう、というなんとなくの安心感がある。人々の話し声も静かだ。電車内でも大きな声で話し電話をかけるアテネやテッサロニキとのギャップがすごい。
お金の計算と言葉はとても難しい。全く言葉がわからない国に来たのは久しぶりだ。
朝、中心広場や公園をゆったり散歩した。あらゆる緑が美しい。初夏を感じる。桜やモクレン、ユキヤナギなどいろいろな花が一斉に咲き、鳥が巣作りに励む様子を見て、山形も春が短いが、クラクフはもっと冬から初夏への切り替えが急なんだろうと思う。
朝の街をねこと散歩しているおじさんがいた。
修道院行きのバス停に向かっていたら、青空市のような祭りが開催されていた。
ジュレック(ライ麦を発酵させたスープ)とビーツのスープを飲む。パンは無料で必要なだけ持って行っていいシステム。別の屋台で大きなソーセージも買った。どれもおいしい。
交差点の真ん中にあるバス停から修道院に向かう。
修道院は崖の上にあるのだが、街中から20分ほどで到着した。修道院までの川沿いはサイクリングロードとしてもおすすめされているようだ。
ギリシャのねこと怖い犬と畑の中の宿
Booking.comで取った宿のオーナーとメールのやり取りが入れ違ってしまい、宿に着いたがオーナーがいない。一軒家のゲストハウスなので他には宿泊客もいないし、わたしたちは日本国外で通話できる電話を持っていないので、オーナーと連絡がつかない。
とりあえず食べられるうちに、と空港でギリシャ・トラディショナル・ベーグルと書いてあるものを食べた。クルーリというらしい。ゴマがまぶしてある軽いパンでおいしい。顔より大きいサイズで1.3ユーロ。200円くらい。
タクシーで宿に向かった。宿は畑のど真ん中にあった。運転手に「こんなジャングルみたいなところ」と文句を言われ、チップを余計に取られる。宿の周りには何もない。カササギが飛び回っている。ぶらぶら歩きながら家がある集落を探す。
本当に誰もいない。途方に暮れる。畑を出て家が集まっている地区まで歩く。どの家も人気がなく、犬しかいない。犬は番犬として飼われているらしく、野生味がありびっくりするほど激しく吠えてくる。野良でぶらぶらしている犬もいる。全体的に、大きくてアグレッシブで怖い。家主のいない家を守る役目なのだろう。でも家主不在時の餌や世話はどうしているのか?
通る全ての家の犬に激しく吠えられ続けながら歩いていると、おばあさんが1人、庭仕事用の小屋から顔を出してくれた。「コスタスさんの家に泊まる者だけど連絡が取れない。コスタスさんを知っているか?」と話しかける。
相手もこちらも英語ができない。相手は諦めて完全にギリシャ語で話しかけてくる。ギリシャ語はイタリア語とちょっと似ているので雰囲気だけわかる。こちらの英語は「コスタスさん」「いない」「困ってる」くらいは通じているようだ。
おばあさんによると、コスタスさんは坂になっている畑の上の方に住んでいるらしい。畑を登る。
畑を登った先の集落は、さっきの集落よりは少し家が多いが、相変わらず人気のない家と激しく吠え続ける番犬が並ぶ。
どの集落や畑にもねこがたくさんいる。ねこは犬と打って変わって人懐っこく、おっとりしている。黙っていると脚に絡みついてじゃれてくれる。
庭で爆音のギリシャ民謡?を流しているおじいさんがいたので話しかけたが、耳が遠くて何も聞こえない模様。全く何も話せなかったが、ニコニコ笑顔で別れる。ここでも大きな犬に吠えかけられた。
ぐるりと一周集落を回ったところで、電動キックボードに乗った男性とその友人を見つけた。この集落で出会った人の中では際立って若い。ダメ元で声をかけると、コスタスさんを知っているという!
キックボードの男性はその場でコスタスさんに電話をかけてくれて、連絡がついた。鍵の番号を教えてもらい、宿に入れる目処がついた。キックボードの救いの神と握手を交わし、宿の方に戻る。坂道も渋滞も多いので、電動キックボードはかなり快適そうだ。
宿に戻る途中で、突然羊の群れが現れて道を塞いだ。大群の羊を率いているのはおじいさん1人と、3頭の牧羊犬だった。さっき見た犬の一部は牧羊犬だったらしい。真正面からたくさんの羊が道を塞いで向かってくるのは迫力がある。羊たちと牧羊犬が道を横切って畑に向かうのを眺める。
17時になってオーナーのコスタスさんと合流する。行き違いについてお互い謝った。その後、オーナーは息子さんと車で合流し、2人でバス停まで送ってくれた。息子さんは観光関係の仕事をしているらしく、いろいろな国の言葉を少しだけ話せる模様。新潟県を知っているというので驚いた。
コスタスさんは素晴らしいオーナーだった。夕方も過ぎてから中心街へ向かおうとするわたしたちに、サンドイッチを2つ持たせてくれた。分厚くカットしたギリシャ産のフェタ・チーズと、目の前でスライスしたトマトときゅうり、ハムが入ったサンドイッチ。街中でレストランに入る時間の余裕がない中でとても助かった。塩気の効いたフェタ・チーズと新鮮な野菜でお腹がいっぱいになった。旅行に出て以来初めてのフレッシュな食べ物だった。
明日の早朝7時には別の街に立つ。今日アクロポリスに登ってパルテノン神殿が見たい、ということで大急ぎで中心街へ向かう。畑の中の宿から中心街までメトロとバスで夏は日が長いので、屋外の施設も20時までオープンしている。
19時でも日本の16時頃のように明るい。向かいの山に日が沈んだのは20時半ころだった。
アテネ中心街も、至る所にねこがいる。街中には人懐こいねこも、そうでないねこもいる。みんなかわいい。
アクロポリスを降りて暗くなる前に帰ろうとした後、降りるバス停を間違えたり、唯一インターネットに繋がるスマホの充電が切れてキオスクに駆け込んで充電してもらったり、家までの真っ暗な農道を野犬に阻まれ追いかけられたり、いろいろ大変なことがあったがそれはまた別のお話。
明日は4時に起きて7時の便でテッサロニキまで飛ぶ。
持っていく SIMはahamoにしてみた(感想: 大正解)
毎回海外に行くたびにSIMカード・Wi-Fiの環境が進化している。今回はトランジット含めて数カ国を跨ぐので、ahamoにしてみた。
最初に旅行したときはモバイルルーターをレンタルした。数年後iPhoneに変えて、海外用SIMを購入して飛行機の中で入れ替えるという方法に変えた。
海外用SIMは基本的に特定の国でしか使えないので、トランジットが長い場合に空港で困ることが多い。
今回どうしようか調べたところ、なんとahamoはローミングをオンにするだけでほとんどの国でそのまま使えるとわかった。
今はメインの回線をワイモバイルにしているので、副回線としてahamoを契約することにした。eSIMは手続きした当日に使用開始できるので便利。
トランジットのシンガポールの空港(無料Wi-Fiも十分速くて快適だったが)でも、飛行機着陸直後のギリシャでも、日本にいる時と同じように快適に使えている。稀に場所によって電波が弱いところがあるが、それは他のSIMでも同じだろう。
注意すべき点は、ローミングをオンにするので電話がかかってきてしまうこと。かかってきた電話に出てしまうと高額の受信料がかかる。
今回は副回線として契約して新しい電話番号を発行したばかりなのでかかってくることはないと思うが、うっかり出ないように気をつけている。
シンガポールにはタイガーバームガーデンもあるじゃないか
今回は初のシンガポールでのトランジット。
シンガポールでジョジョに出てきたスポットは、マーライオンの近く(ポルナレフが荷物置いてたらゴミを捨てたと警察に怒られたところ)とココナッツ・ウォーターを買った商店街、あとは承太郎さんがイエロー・テンバランスと戦ったケーブルカー&ポルナレフが呪いのデーボと戦ったホテルと思っていたが、空港でタイガーバームのショップを見て思い出した。
ポルナレフ対アブドゥルのスタンドバトルがあったのは、あの印象的なタイガーバームガーデンだった。
3部に出てくるタイガーバームガーデンは香港のものだが、そちらは2000年に閉鎖されている。
しかし、シンガポールと中国にはまだタイガーバームガーデンがあるらしい(名前は変わった模様)。
トランジットなので出国して訪問できないのが残念だが、シンガポールも訪れたい場所の多い国だなと思った。どのスポットも空港からのアクセスがよさそうで良い。
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今回の旅で心配だったのが、マスクを外す生活に慣れることができるのか?ということだった。
外ではマスクを外すことも増えてきたが、やはり他人とマスクなしで話すことにはかなり抵抗がある。飛沫は見えないが、何か発話している他人との距離が近過ぎると飛沫が飛んでくるような感覚に襲われる。
ヨーロッパではマスクをしている人がほとんどいないようなので、周りに馴染むためにはマスクを外さないといけない。まだインフルエンザもコロナも感染者はそれなりにいるし、3年かけて習慣化したことを変えるのはけっこう抵抗がある。
欧米の人はなぜそんなに頑なにマスクを外したがるのか?ということについて考えた。感覚的に絶対無理、という何かがあるんだろうけれども、日本人だったら何と近いのだろう。
日本人だったら、ベッドに土足で入るような感じだろうか。だとしたら確かにかなり嫌だ。悪性の水虫が流行して、他人と一緒のときは常に靴を履いていなければならないとなったようなイメージ。
ここまで考えてふと思ったのが、日本人はそういう状況になっても「家の中でも違和感がない、靴下のような靴」「超薄型蒸れない靴」とか開発しそうな気がする。